1950年代のオーディオの音を、小林秀雄はどう聴いたか

 マスタリングの話が続きましたので、今日はいつもと違った話題でお口直しをしていただこうと思います。じつは先日、あることを調べていましたら、文芸評論家・小林秀雄さんに『ヴァイオリニスト』という原稿があるのに気づき読み直してみました。
 私たちの世代の文学青年にとっては、小林さんを読むことは通過儀礼のようなものでしたから、私もずいぶん読みました。小林さんがヴァイオリンを練習していたことはもちろん知っていましたが、この『ヴァイオリニスト』は忘れていました。
 ついでに申し上げれば、小林さんの同僚で同じく文芸評論家の河上徹太郎さんや、小林さんがフランス語の家庭教師をしていた小説家の大岡昇平さんは、ピアノをよく弾かれました。河上さんのピアノは人に聴かせられるほどの腕前だったようですが、小林さんのヴァイオリンはそれほどでもなかったようです。大岡さんもなかなかの腕前だったようですし、作曲もされたようです。写真は『ヴァイオリニスト』が収録された小林秀雄全集第10巻(新潮社)です。

画像


 さて、小林さんの『ヴァイオリニスト』ですが、これが何とユーディ・メニューイン(Yehudi Menuhin 1916 - 1999)が敗戦後間もない1951(昭和26)年9月15日に初来日して、小林さんが18日の最初のコンサートを聴かれたことを書かれたものだったのです。もともとは、翌日の朝日新聞に掲載したもののようです。それに手を加えられたものが、雑誌「新潮」に掲載され、今は全集に収録されているのです。
 この記事で私が驚いたのは、メニューヒンのコンサートを聴いたある人が小林さんに「退屈だった、わざわざ出かけて行くまでのことはなかった」といい、小林さんがその反応をさして不思議なものに感じなかった、という点です。
 いくら、その知り合いの人がメニューヒンのレコードをほとんど集めているようなレベルの、熱心なレコードファンだといっても、その大半はSP、若干のLPモノーラルだったはずですし、再生装置のグレードも今日のオーディオに比べれば、雲泥の差があります。

 どうやら、小林さんがいっている、レコードファンは今日のオーディオファンとは少し違った聴き方をしているのではないかと私は思いました。音の質よりも、演奏のあり方、といってもいいし、あるいは音楽の表現力といってもいいのですが、そちらに集中した聴き方だったのではないか、そんな気がします。それはある意味で、文学的なレコードの聴き方といってもいいかもしれません。
 また小林さんは、蓄音機のメカニズムとレコード販売方法の急激な発達が、楽器も触らない、音楽会にいかない、異様な音楽愛好家の大集団を急速に形成した、といいます。これはレコードで音楽を聴く人、つまりレコードファン、オーディオファンのことです。
 そして、さらにこういいます。

― 今日の最上の蓄音機が、どんなメカニズムによって、どんなことまで可能にしているかというような知識は、私にはないが、録音室で、最上と考えられる条件の下に捕捉されて再現される音は、その音域にせよニュアンスにせよ、音楽の種類によっては、すでに人間の聴覚が知覚し得る以上のものとなっているだろうと思われる。この種の発達には切りがない。―

 驚きますでしょう。これが1951年の後半に書かれた文章なのです。「小まめで神経質なレコード・ファンは、実際、あきれるほどいい音を聞いているものである」ともいっています。
 ステレオLPの登場は1958年のことです。このあたりからオーディオはハイファイ(High Fidelity=高忠実度)化を加速するのですが、一般家庭にステレオが普及するのは1960年代半ば以降のことです。
 そして、1982年のCD登場以降デジタル時代となり、プレーヤーからアンプ、スピーカーというオーディオの主要機器と録音の技術は1950年代とは、まったくといっていいぐらい次元の違う進歩を遂げたのです。しかし、それはひょっとすると、小林さんがいう「この種の発達には切りがない」ということなのかもしれませんが。

 明らかに今日とは、録音(レコード、CD)作品の再生クオリティについての考え方が違っているとは思うものの、ただそうとばかりもいっていられないような気もします。音楽は作曲家の楽譜という原本があり、それを演奏家という職人が音にして、初めて人は聴覚で音を認識し、脳で音楽の像を結びます。
 その音楽の聴き方が、生の演奏(コンサート)であるか、録音の再生によるかの2つの方向に分かれます。音楽ファンはそのどちらも大切なものと考えていますが、演奏には出来不出来、好き嫌いが避けられません。そして録音で聴く場合は、演奏・録音・再生の3分野の質が問われることになります。
 ということは、オーディオで音楽を聴くということは、それだけ複雑な行為なのですね。だからこそ、いい音で聴くことに挑戦するのは楽しみであり、その工夫についてあれこれ話し合ったり、調べたりすることも大きな楽しみの一部なのです。
 人の聴覚は、一度いい音を聴くと、そのレベル以下の音では満足できなくなるといいます。視覚や味覚と似ているようでもあり、それ以上に鋭敏なところがあるかもしれません。やはり、音楽を聴くためのオーディオは、奥の深い楽しみだと痛感します。
 なお今日の記事ついては、私のホームページの「オーディオの詩と真実」も参照してください。色文字列をクリックすると該当ページが開きます。