“いい音”と“マスタリング”の関係(1)

 4月29日掲載号で、ブルーノ・ワルター指揮、コロムビア交響楽団のベートーヴェン交響曲第3番「英雄」について少し触れました。今日はこの録音をめぐって“いい音”と“マスタリング”の関係を少し考えてみたいと思います。
 ブルーノ・ワルター(Bruno Walter 1876年9月15日-1962年2月17日)は1939年9月、第2次世界大戦の戦火が激しくなり、スイスのルガーノからアメリカに逃れました。アメリカではニューヨーク・フィルやメトロポリタン歌劇場などを指揮して活躍しましたが、心臓に問題を抱えていたこともあり、80歳を迎える1956年には引退していました。
 しかしこの頃、ステレオ録音がやっと本格化したのです。CBSはワルターのためにコロンビア交響楽団を特別編成し、彼を説得してワルター最晩年の演奏をステレオ録音したのです。ベートーヴェンの交響曲は、1958年から1959年にかけて全9曲録音されました。ワルターは1962年2月に亡くなりましたから、健康状態を考えると、まさにギリギリのタイミングでした。
 同じく1937年にアメリカに亡命した指揮者、アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini 1867年3月25日 - 1957年1月16日)は、タイミングが合わず、残念ながらステレオで録音を残すことはできませんでした。

 1982年10月に登場したCDは、音楽信号をデジタル化してディスクに記録するという画期的なメディアでしたが、収録作品はデジタル録音されたものばかりではなく、アナログ録音からデジタルマスタリングしてCD化した作品も含まれます。
 デジタル録音のCDには「DDD」、アナログ録音のCDには「ADD」と表記し、価格は「DDD」のほうが少し高かったのです。しかし、録音の方式がアナログであれ、デジタルであれ、大切なのは作品と演奏の「質」ですから、優れた演奏の多いアナログ録音は、今ではその主要なものの大半がCD化されています。

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 これは1987年に発売された2BOX、全6枚のワルター指揮、コロンビア交響楽団による「ベートーヴェン交響曲全集」です。9つの交響曲と「レオノーレ序曲第2番」と「コリオラン序曲」が収められています。ワルターのベートーヴェンがCDで最初に発売されたのは、1983年~84年ですから、アナログ録音名盤のCD化としてはもっとも早いほうでした。ワルターの人気の高さを証明しています。
 私は高校時代に学校の音楽室でステレオLP盤の「交響曲第3番」を、モノーラルで聴きました。東京の都立高校でステレオ装置をもっているところは、1960年前後はまだほとんどなかったと思います。二期会の現役歌手だった吉岡巌先生(バリトン、後に東京芸術大学教授)が当時都立高校の音楽教師をされていて、再生装置もレコードも持っていない私を憐れみ、音楽室のレコードを自由に扱わせてくれたので、このレコードは何度も何度も聴きました。聴くときに見ていた全音のポケットスコア(当時220円)がボロボロになるぐらい何度も聴きました。
 しかし、高校卒業後はこの演奏を聴く機会がほとんどないままに過し、CDが出てやっと再会することが出来たのです。CDを聴いて、もちろん、感動しました。何しろ初めて本来のステレオで聴いたのですから。
 CDで聴いても、やはり他のどの演奏より、ワルターがいいと感じました。特に第3楽章のトリオ、あのホルン3本の演奏のまろやかさ。あれは他の盤ではもちろん、コンサートでもめったに聴けない独特な響きです。まるで1本の楽器で演奏しているような、柔らかくふっくらと溶け合った音でありながら、3本の演奏がそれぞれしっかりと聴き分けられるのです。この演奏をこの音質で半永久的に自分の手許におけるなんて、なんといい時代に生まれ合わせたのだろう、と心底ありがたく思いました。

 ところが、しばらくしてある人が、私のこの曲に対する思い入れを知り、たぶん1991年の春ごろだったでしょうか、このCDのアメリカプレス盤をプレゼントしてくれたのです。そしてこう彼はいいました。
「同じ録音なんだけれど、かなり音が違うんだよね。何でだろう。あなたなら録音もしているからわかるでしょう。聴き比べてぜひ意見を聞かせてください」