ステレオの思い出~最初のステレオ、そして岡俊雄さん(2)

 物心ついたころから身近にあるものについては、それがどのようにして生まれ、なぜそのように動作するのかについて、人は特に関心を払わないものです。たとえば、私が生まれた1940年代にラジオは、性能の差はピンからキリまでさまざまでしたが、すでにほとんどの家庭にありました。ですから私は子どものころ、ラジオがどういう原理で放送電波を音に変えてくれるのかなどと考えたことはありません。後年、小学校4、5年生のときに鉱石ラジオを学校で作る授業があって、初めて放送、電波、受信などということをボンヤリと知り、その不思議な仕掛けにボンヤリした憧れを抱きました。
 鉱石ラジオといえば、先生の指導で組み立てた簡素な構造の物体から、電気も入れないのに放送が聞こえてきたのには大いに感動しました。しかし、家のラジオが大きな音を出すことには少しも感動しません。人間の文明に対するこういう反応は面白いものですね。
 そんなわけで、手回し蓄音機や電気蓄音機がすでに存在している時代に生まれ育った私の世代は、SPに代わってLPが出現したことについては、さほど大きな感動はありませんでした。しかし、モノーラルからステレオへの革新は、レコード技術が進歩すれば必ず実現するものという、予見的知識があったにもかかわらず、実際の音を聴いたときにはモノーラルとの違いの大きさに心底感動したものです。2次元の音の世界から、3次元の音の世界への変化は、事物を図鑑で見るのと現実の物体を肉眼で見るのとの違いに匹敵するくらい大きいものでした。
 耳が頭部の左右に1つずつ2個ついていることによって、人や動物は自分の置かれた空間を3次元的に認識できるのだ、とは分かっていますから、その原理を録音再生というオーディオの世界で活かすためには、早くからさまざまな実験が行なわれていました。

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 これは岡俊雄さんの「レコードの世界史 SPからCDまで(音楽選書46、音楽之友社)」。エジソンからCDまでの歴史が簡潔にまとめられています。これは現在でもで中古ですがネットで入手可能なようです。ここでは前回ご紹介した、世界初のステレオ録音と思われるLPレコード、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」のライナーノーツから岡さんの解説を引用しておきます。

― 2つの耳で聞くような立体感をもった音が聞こえるという音響技術の発見は非常に古い。1881年にパリで電気博覧会が開かれたとき、電話技術者のクレマン・アデルが、会場から2キロも離れたパリのオペラ座の音楽を電話で伝える設備をしたときに偶然に発見された。一度に多くの人に聞かせるために、舞台の前面に多数の電話の送話器を並べ、会場にはたくさんの受話器をおいた。この送話テストのとき、アデルが、別々の送話器につながっている2つの受話器を耳に当てたところ、ヴァイオリンが左側、ティンパニは右側というふうにはっきり方向感をもって聞き分けられたのに驚いてしまった。これがステレオ音響伝送の始まりである。―

 こうして読んでみると、なかなか感動的ですね。オーディオのステレオ化などごく自然に実現したと想像しがちですが、これを現実にするためには絶え間ない実験が必要なことはもちろん、女神の微笑みといわれる“偶然”も必要だったようです。そして、録音技術と再生技術が共通の規格で統一されるまでには、さらに多くの実験が必要でした。
 岡さんによると、1931年にイギリスのEMIの録音技術者だったA.D.ブラムラインがレコードの1本の音溝に2つ(左右)の信号を記録して再生する技術を開発して特許を得ました。しかし、これは後に正式な規格となる45/45方式の記録とは違うものです。
 さらに1933年には、アメリカのベル電話研究所がステレオ音響の大掛かりな実験を連続的に行いました。フィラデルフィアでのオーケストラ演奏を電話線でワシントンまで送り、これをアンプで増幅して舞台に置かれたスピーカーから再生したもので、3チャンネルの立体音響だったと岡さんは書かれています。演奏では、後に映画「ファンタジア」で多くの人に知られる、大指揮者レオポルド・ストコフスキーが協力したとあります。
 さてその「ファンタジア」ですが、この映画のサウンドトラックは7、8トラックの光学式録音で収録し、これを4本のサウンドトラックに、今でいうトラックダウンをして上映用プリントが作られました。映画館ではこのサウンドトラックを多数のスピーカーで再生し、ロスアンジェルスではなんと96個も使ったそうです。これは、オーディオでいうステレオとはちょっと違ったもので、むしろ後の映画独自のサラウンドサウンドに近いものかもしれません。
 岡俊雄さんの解説はまだまだ続きますが、少し先を急ぎましょう。

― ステレオフォニック・サウンドは、テープレコーダーの普及とその発達により、ミュージックテープという形で商品化され(1955年)、さらに1958年から45/45方式の今日のステレオLPが実現する。ブラムラインの発明から4世紀をへて、ようやくレコードのステレオ化が、広く受け入れられるに至ったのである。―

 レコードのステレオ化を現実のものとするには、再生側ではレコード盤への信号の記録方式の統一、音溝から信号をピックアップするカートリッジの開発などが貢献しましたが、録音側では何と行ってもテープによる磁気録音の発達が大きな要因となりました。そして優れたテープと磁性材、そしてレコーダーの開発ではドイツが優位に立ち、すでに1930年代の後半には実用化の段階に達していました。前回紹介したギーゼキングの「皇帝」のステレオ録音が第2次世界大戦中という早い時期にできたのは、完成度の高いドイツの磁気テープ録音があったからこそなのです。岡さんの解説に戻りますと、

― いずれにせよ、このギーゼキングの《皇帝》は、われわれの聴くことのできる本格的なステレオ録音のもっとも古いものだといっても誤りではあるまい。そして、これが1944年の録音とは信じられないくらい、奇跡的といってよいほど良質の音でレコード化されていることはありがたい。(同じ頃のフルトヴェングラーのライブレコーディングのそれと較べれば判然とするだろう)―

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 これは岡俊雄さんの古い写真です。不鮮明で岡さんにも申し訳ないのですが、手許にはこれしかないのでお許しください。下の写真は、「フィルム・ミュージック 世界映画音楽辞典(教育社)」。さらに、ワルター・ギーゼキング(ピアノ)、アルトゥーロ・ロータ指揮ベルリン放送交響楽団によるベートーヴェンピアノ協奏曲「第5番変ホ長調《皇帝》」の復刻CDです。ナクソスから発売されていて現在も入手可能なようです。CD番号は「CD1145」。情報は<http://ml.naxos.jp/album/CD-1145>でご覧ください。