ステレオの思い出~最初のステレオ、そして岡俊雄さん

 オーディオがモノーラルからステレオになったのは、今からおよそ50年あまり前のことです。ステレオの録音再生の実験は1930年ころから行なわれていましたが、世界的統一規格のもとで正式にスタートしたのは、「オーディオ50年史(日本オーディオ協会)」によれば、1958年です。この年6月、RCAビクターが「ベートーヴェン:交響曲第7番」、「ストラヴィンスキー:春の祭典」などクラシック音楽作品16点を一挙に発売したのです。そして、ヴォックス、コンサートホール、ウェストミンスターなどの各社が次々に発売を始めたのです。
 また同書によると、日本では2ヵ月遅れて8月にビクターが発売を開始したとあります。翌9月から東芝エンジェル、テイチクなどが続きます。そして、再生装置はレコードに先立って1958年4月、日本ビクターの「STL-1S」が発売されています。この第1号機のサイズは1,018(幅)×768(高さ)×430(奥行き)、価格は77,000円でした。レコードは大半が2,800円だったそうで、これはスタート時のCDの価格とほぼ同じですね。しかし、当時の物価から考えるとレコードも機器もかなり高額だったことがわかります。かなり古ぼけた写真ですが「STL-1S」を一応ご覧いただきましょう。

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 私が高校に入学したのは1959年4月でしたが、音楽室にはまだステレオ装置がなく、スピーカー1本で聴くモノーラルでした。しかし、レコードはすでに何枚かステレオがありました。たとえば、ブルーノ・ワルター指揮、コロンビア交響楽団のベートーヴェン交響曲第3番「英雄」。これはモノーラル再生ですが何度も何度も聴きました。この演奏の録音が1958年1月。この録音は後にCDに復刻されて、そのCDで私は初めてオリジナルのステレオを聴くことになったのですが、これについてはテーマをあらためてお話します。
 ところで、私の雑誌編集者時代の同僚でレコードコレクターの山田豊明さん(ブラームス協会会員)によると、世界初のステレオ録音レコードといわれているのは、ワルター・ギーゼキングのピアノ、アルトゥール・ローター指揮、ベルリン放送交響楽団による、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」なんだそうです。これが、1944年秋の録音。山田さんが秘蔵するそのLPジャケットは下の写真です。

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 このレコードを見るのは初めてでしたが、ジャケットに解説を書かれているのは、岡俊雄(1916-1993)さんでした。岡さんは映画関係のご出身です。1936年から雑誌「スター」「新映画」「映画技術」などの編集に参加、1943年には日本映画文化映画製作局に所属し、長編記録映画の製作を担当、1947年には「キネマ旬報」の同人。映画関係の著書もありますが、私の書架にあるものでは、「フィルム・ミュージック -世界映画音楽事典-」(1988年教育社)。映画音楽のバイブルとでもいうべき労作です。
 岡さんは音楽、オーディオにも造詣が深く、この分野では1981年に、「マイクログルーヴからデジタルへ」をラジオ技術社から出されていますが、これは上巻がモノーラル編、下巻がステレオ編の2分冊で、それぞれの優秀録音ディスク30年史となっています。また、1986年には音楽之友社から「レコードの世界史―SPからCDまで(音楽選書46)」が出されていて、これらは私の重要な参考書となっています。
 オーディオファンには、月刊「ステレオ」や季刊「ステレオサウンド」という専門誌の筆者としてお馴染みでしょう。私も、何度か原稿をお願いしました。ご自宅で映画や絵画のお話を伺ったこともあります。ソニーから発売されたカラヤンの映像作品の取材にご一緒したこともありました。
 しかし岡さんは、1993年2月4日、本当に突然というほかはない感じで、亡くなられました。風邪をこじらせて1月5日に入院されたことを聞いていましたが、お見舞いに行った社員の報告によるとお元気になられたということなので、安心していた矢先の病状急変。奥様によると最後の日の夕刻、自ら望まれてマリア=ジョアオ・ピリスの演奏する、モーツァルトのピアノ・ソナタのCDを聴くうちに、眠るように旅立たれたそうです。いかにもそれは岡さんにふさわしい最期ともいえますが、オーディオ界では数少ない知識人の急逝に、私は大いに落胆しました。
 後日、岡さんの愛用されたクラシック音楽のスコア数10冊が形見として奥様から送られてきました。バロックから現代作品まで幅広いジャンルのスコアには、感想や留意事項が書き込みされていたり、あちこちに付箋がつけられているものもあり、これらを手にすると、スコアを見ながら一心に音楽を聴かれていた岡さんの姿が、目の前に浮かび上がってくるような気がします。