番外緊急提言~20世紀が誇るべきもの、それがオーディオだ!

 12月もこの時期になりますと、今年の10大ニュースなどという恒例の記事や番組が目につきます。今日は、そういうつもりではなく、私が存命中の日本人でもっとも尊敬する人の1人である、作家の丸谷才一さんの近著『星のあひびき』(集英社)に倣って突然、妙なことを申し上げたくなったのです。そして、その趣旨を今後長く読者の皆様と共有したいと思いました。
 では、早速。

●20世紀のモーツァルト復活、昭和の『源氏物語』再評価

 21世紀になってはや10年。とはいうものの、新世紀の最初の10年というものは、どうしても前世紀の延長戦、もしくはサッカーのロスタイムみたいな感じが拭えませんね。ここでちょっと驚きました。ロスタイム(loss time)って日本語英語なんですね。英語では“additional time”というそうです。
 失礼しました、話を元に戻します。丸谷才一さんは、近著『星のあひびき』の冒頭の「昭和が発見したもの」で、20世紀は戦争と革命の世紀だったと言っています。
 そして、兵器がどんどん進歩(というのでしょうか?)、高性能化(というのでしょうか?)したせいもあり、戦争で命を落とす人の数は、前世期とは比べ物にならないほど膨大になりました。丸谷さんは「20世紀の戦争による死者数はおよそ1億8700万人、これは1900年の世界人口の1割以上に達する。20世紀はそれほどむごたらしい殺戮の世紀だった」と言っています。
 この20世紀の反省から、人類は21世紀こそ戦争のない平和を目指すわけですが、何と新世紀初年の2001年、9月11日にアメリカで例の同時多発テロが起こりました。そして、2003年にはアメリカがいくつかの国を巻きこんでイラク戦争を起こし、アフガニスタンへの侵攻も始まります。そういう意味で、新世紀の最初の10年はまだ20世紀の延長線上にあるのかもしれないといったのです。
 しかし、今日は戦争反対論を展開するつもりはありません。徐々に本題に進みますので、お付き合いください。丸谷さんはその文章で、ユダヤ系のドイツ人で、第2次世界大戦中にアメリカに亡命した、歴史学者ピーター・ゲイの言葉を紹介しています。それは、こういうものです。

― 暗澹たる20世紀が誇りうるほんの僅かな事柄の1つが、モーツァルトの音楽をそれにふさわしい栄光の位置に押し上げたということだ ―

 音楽好きの人なら、なるほど、と納得するかもしれませんね。19世紀はモーツァルトが忘れられていた、あるいは極端に不人気だったなんて、今の人には信じられないことでしょう。しかし、19世紀は、ブラームス、ワーグナー、マーラーといった人たちが脚光を浴びていた時代ですからね。今のモーツァルト人気から考えると信じられないことですが、モーツァルトはいわば埋もれていたのです。
 それで、血なまぐさい20世紀の誇り得ることとして、モーツァルトの復権、その正しい評価、そして空前のモーツァルト人気が挙げられたわけです。
 丸谷さんはそういうことからわが日本を見ると、昭和時代(1926 - 1989)の功績は何かと考えます。そして、それはいうまでもなく『源氏物語』だと言うのです。

― その暗澹たる昭和期にいささかの功績があったとすれば、それは『源氏物語』を花やかに讃へた時代であったことだと思ふのであります。―

 19世紀のモーツァルトと同じように、昭和以前は『源氏物語』は一部の国文学者以外は、不道徳な本として、無視、冷遇、排除していたわけですからね。それに対して、昭和時代、特に戦後は、谷崎潤一郎の現代語訳の力もあり、この1000年前の古典小説を大いに称揚し、今や『源氏物語』は世界文学の傑作としての位置を不動のものにしています。
 そして、驚くべきは出版不況といわれるなかで、10種を超える現代語訳源氏物語は、単行本と文庫本を合わせると、その発行、売上部数は2千万部に達しようという勢いなのです。

●20世紀が誇るべきもの、それこそオーディオの発明と成熟

 さて、そこで私なら20世紀が誇るべきものは、何かと当然考えたくなったわけです。そして、熟慮に熟慮を重ねて(!)、それは「オーディオ」以外にないのではないか、と私は確信したのです!
 オーディオの始まりは一般的には、エジソンが、あの錫箔蓄音機「フォノグラフ」を発明した1877年12月6日とされています。オーディオファン、音楽ファンなら一度はあのシワガレタ声を聴いたことがあると思います。

― Mary had a little lamb little lamb, little lamb, Mary had a little lamb.Its fleece was white as snow(メリーさんの羊 メエメエひつじ メリーさんの羊 まっ白ね)―

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 エジソン自身の声による、あの吹き込み(録音)と再現(再生)こそはオーディオの始まりなのです。1877年は19世の終盤でまだ20世紀ではありませんが、本格的に録音再生が始まるのは20世紀に入ってからのことです。
 エジソンのシリンダータイプから、ディスク方式になり、蓄音器から電蓄に、真空管からトランジスタへ、そしてSPからLPへ、そしてモノーラルからステレオへ、そしてCD時代、さらにDVDへ、2チャンネルからマルチチャンネルへ、これらの目まいがするような技術革新の急展開による、録音と再生、すなわち“オーディオ”の発達成熟は、他のどんな分野に比べても、人類への貢献度では一歩も引けを取らない画期的なものだといえるのではないでしょうか。
 その功績の大きさは、もし、私たちが今、オーディオをもっていないとしたら、と考えてみればすぐにわかります。

●なぜ人は、オーディオをそれにふさわしい栄光の位置を与えないのか?

 ピーター・ゲイという歴史学者が、20世紀が誇るべきことは、「モーツァルトの音楽をそれにふさわしい栄光の位置に押し上げたことだ」といっている、と丸谷才一さんに教えられました。それに倣っていえば、私たちは「オーディオに、それにふさわしい栄光の位置」を与えたでしょうか? これは大いに疑問ですね。
 しかし、もし、オーディオがなかったら、音楽学者や音楽批評家の大半は失職し、文学の半分はその輝きを失うか、その作品そのものを失うことになったはずなのです。
 なぜなら、オーディオがなければ、実際の演奏を生で聴く以外には、音楽を音として聴くことができないからです。そして、楽譜と文字資料だけで音楽を研究したり語ったりすることは至難のわざです。そもそも、楽譜だけ見て、音楽が完璧な音として聴こえるのは、モーツァルトとかベートーヴェンというような、音楽の天才にだけ与えられた特別な能力なのです。
 文学ではどうかというと、具体的な例を挙げれば分かりやすいでしょう。もしオーディオがなかったなら、小林秀雄さんは『モーツァルト』を書けなかったし、トーマス・マンの『ドクトル・ファウストゥス』も生まれていなかったかもしれません。もちろん、吉田秀和全集はその半分はなかったでしょう。
 多くの音楽関係者や文学者たち、さらに他の分野の芸術家たちも、オーディオがあることによって、その仕事の重要な部分が支えられているにもかかわらず、音楽作品とその作曲者や演奏家については、多くのことを語り絶大な賛辞を呈していますが、音楽を聴くには欠かすことのできない道具であるオーディオについては、不思議と寡黙なのです。中にはオーディオで聴いたにもかかわらず、生で聴いたかのような表現をする人、あるいはオーディオで聴いたことを気づかれないような書き方をする人も少なくありません。
 それなのに、CDは冷たい音で、ここ一番はアナログレコードだ、なんて書くのです。やっぱり真空管で聴くと音楽の温もりが感じられる、というような生ぬるいことを書いて悦に入っているのです。どんなオーディオ機器で聴いてそう感じたのかに触れることは、まるで必要がないことであるかのような態度ではありませんか。
 これには、さまざまな原因があるのですが、今日は触れません。私の今後の重要なテーマですから、ゆっくりと書いていくつもりです。ただ、今日は、20世紀において、オーディオは、もっとも誇るべきものの1つであり、その功績の大きさは計り知れないものがある、と言いたかったのです。そして、オーディオのそういう功績にふさわしい評価をし、栄光の位置を与えなければならないのです。みなさんも、そう思いますでしょう?