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<<   作成日時 : 2011/05/15 18:20   >>

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●音楽を愛する友へ

 かねてから不思議に思っていることがあります。それは音楽が大好きだという人のなかに、再生装置にはこだわらない、ある程度のものでいいじゃないか、という気持ちの人がじつにに多いことです。作曲家や演奏家にもそういう意見の人たちが多いのです。
 しかし、音楽は生(なま)で聴くよりも、CDなどの録音メディアを再生して聴く時間の方が普通の場合圧倒的に長いのです。そして、録音の器がアナログレコードであれ、CDであれ、あるいは携帯デジタル機器であれ、それらの音は再生装置によって驚くほど違うのですから、本来なら誰もがオーディオ機器にこだわりをもつはずだと思うのです。ところが現実はそうではない。
 あるオーケストラを、たとえばベルリン・フィルでもいいのですが、その演奏を彼らの本拠地であるベルリン・フィルハーモニーで聴くのと、東京のサントリー・ホールで聴くのでは音が違います。また、同じホールでも聴く場所によっても音は違います。しかし、ベルリン・フィルのコンサートに出かける人にとって、いちばん大切なことはその演奏を聴くことであり、どの場所で聴くのかはあまり問題ではないのかもしれません。再生機器にこだわらないというのは、そういう事情と同じなのでしょうか。

 音楽書籍の出版プロデューサーとして高い実績を上げている長年の友人はこう言います。

― 音楽の好きな人にとっていちばん大切なのは、音楽を聴くことであって、それをどういう音で聴くかはあまり問題ではない。だから極端にいえばオーディオマニアが軽蔑するような変な音で聴いていても、それは彼らにとってはどうということでもないんだよ。
 僕はオーディオが芸術であるというようなことには賛成できない。生であれ再生であれ、たくさんの音楽に触れたいとは思うけれど、オーディオ装置にこだわる気はまったくないね。そして、作曲家や演奏家が装置にこだわらないのは、どんな音で聴いても音楽がわかってしまうからじゃないかな ―

 また、あるアマチュア・オーケストラでヴァイオリンを弾いている友人はこういいます。

― 生の音楽を聴くということは、たとえば絵の好きな人が本物の絵を見ることと同じだ。そうすると録音された音楽を再生装置で聴くことは、絵を印刷した画集で見ることと似た行為ではないだろうか。だとすると、オーディオ装置にこだわることは、印刷の出来具合にこだわるのと同じになってしまうのではないか。画集をみたり集めたりすることはたしかに趣味として成立するけれど、印刷にこだわるというのは趣味にはならないんじゃないか ―

 そして、あるオーディオ機器の輸入商社の社長はこんなことを言います。

― 最近はここの試聴室にくるお客さんの機器に対する関心のもち方が少し違ってきたな。以前は低音の出方がいいとか悪いとか、あるいはSNやダイナミックレンジがどうとかね、音そのものに強い興味を示したものだけれど、最近は音そのものの話だけでは納得してくれないね。
 こちらが勧める機器で聴くとどういういいことがあるのか、というようなことを話題にしなくちゃ買ってくれなくなってきた。たとえば、このくらいの装置で聴くと安いものと違って、音楽の語っているものが深いところまでわかるとか、こういういい音で聴くと心が安らぎストレスから解放されるとか。だから、今オーディオ界は景気が悪いとかいってるけれど、黙って待っていればまた売れるようになるということはないよ。
 いい装置で聴くということがどんなことなのか、なぜいい装置で聴く方がいいのかを魅力ある説得力をもった言葉で説明する努力をしないと、これからは売れないだろうね ―

 いずれの意見ももっともだと思います。オーディオは音楽を聴く道具です。もちろんオーディオ機器は機械ですから、機械そのものに対するこだわりも立派に独立した趣味であり得るでしょう。しかし、音楽を愛する者としては、その機械がどういう「音楽」を聴かせてくれるかということが問題です。しかしだからと言って“ともかく音が聴けるなら道具はなんでもいい”という考えは納得できません。

画像


 ある画集で、ジャン=レオン・ジェローム(1824〜1904)というフランスの画家の「法廷のフリュネー」という絵を見ました。ジェロームは技巧的な歴史画や宗教画で生前は人気がありましたが、最近ではその評価は決して高いものではありません。画題となったフリュネーは紀元前4世紀のアテネで名高い娼婦でした。そのフリュネーがあるとき神々に対して不敬の振る舞いがあったということで裁判にかけられました。彼女の弁護はソクラテスやプラトンの弟子であった弁論家のヒュペレイデスが引き受けて雄弁をふるいましたが、頑迷な裁判官たちをなかなか説得できません。思いあぐねた彼はついに、被告フリュネーを呼び出し、裁判官たちの前でその衣装をはぎとり、

「これほどの美しい肉体に罪があろうか」

 と叫びました。その美しい裸体にすべての裁判官は心を打たれ、彼女は無罪を勝ち取る、という有名な物語をジェロームはまさにリアリズムの極致ともいうべき技巧を駆使して描きあげました。
 ジェロームの描くフリュネーは右手で顔の右半分を隠し、その右手を左肩の上で左手とかたく握り、重心をやや右にかけて体の線は柔らかく湾曲する典型的な恥じらいの姿を示しています。その姿は本当に息を飲むほどに美しく、彼女を見つめる裁判官たちの驚きの表情には邪なものは少しも窺われません。いかなる邪念の入り込む隙間もない美しさで、まさに神はすべてを許されるに違いないと思わされます。
 しかし、何度もよく見るとその美しさにはどこか不自然なものが感じられます。まるで本物のように描く技巧が凝らされているにもかかわらず、どこかこのフリュネーは、この世の人ではないような印象を与えます。つまり、このフリュネーはジェロームの「理想の女性美」を具現しているわけで、現実の女性の美しさとは違った次元のものなのです。

 オーディオで理想の音を求めて機器の選択をするのは、この画家の心理に似てはいないでしょうか。ある友人がいったように画集で絵を見るのがオーディオなのではなく、むしろ自分の理想像を描く画家の精神、手法にこそオーディオに近いものを感じます。本当の音楽(生の音楽)があって、その録音物がある。そこには作曲家や演奏家、録音スタッフの理想が記録されています。それを、聴く者の心にある理想像に合わせて再生する。機器は画家の絵筆であり絵の具であり、修練によって磨き上げられた技巧というわけです。英語で再生のことを「reproduce=再創造」というのは、そういう意味がこめられているからなのではないでしょうか。積極的なオーディオというのは、そのような創造行為だと、一枚の絵は教えてくれているようです。

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
感激文。いいもの読ませてもらったなあという気持ちです。「法廷のフリュネー」、ちょっと忘れられなくなりました。だっていい音で聴きたいじゃんという、「え、あたりまえだよね」の理由で、オーディオというものをそろえたりするのは私のまわりでも理解は得られません。音楽を聴くのは、幸福な孤独ですから、別にかまわないのですが、友人なんか部屋に来ると、これ全部でいくら?となり、「10万円(チープさに笑わないでください、これ、限度です)」と答えれば、「は!?靴、買えよ、おまえ」と呆れられます。このごろはヘッドホンでいいものがほしいなあと物色中で、(でも一万円予算)なかなかめぐり会えませんが、いつか会えるでしょう。ちなみに、友人宅に、携帯音楽のスピーカードッグから音楽が流れていたのだけと、すごく気持ち悪かったです。部屋がおしゃれなカフェ化して、音楽が均等空気みたいに軽くそこにある状態。確かにキレイだけど……そう!エレベーターの中のBGM状態。すみません、文が下手で。出直します。
sato
2011/08/28 19:36
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