オーディオと想像力~少し古いノートから・私のオーディオ論集(1)

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<これは、ウィーンの市立公園のワルツ王・ヨハン・シュトラウスの金色の像です。今回は私の少し古いノートからオーディオについて考えたものを収録いたします>

●オーディオの音と生の音

 人はいつもオーディオに「いい音」を求めている。しかし「いい音」とは一体なんだろうか。私は「生(なま)」で聴く音楽を追体験できる」ような音が「いい音」だと思っている。ある音楽を再生した時、その音が過去の音楽体験に照らし合わせて、確かに生の音はこうであろうと思えるような音であれば、それはよいオーディオの音だということである。
 オーディオにはオーディオ独自の音があって、生の音とは関係がない、あるいは生の音とは次元の違うものだとする意見もあるが、私はこの考えに与(くみ)しない録音は生の音を記録保存するものとして生まれた。それは人間の長年の夢であった。だから、もしエジソンが「メリーさんのひつじ」と吹き込んだ声が、エジソンの声と似ても似つかぬ音で再生されたのでは、意味をなさないのである。
 録音というからには、エジソンの声そのものではなくても、他の誰でもないエジソンの声であると聴いて判別できるものでなければならない。つまり、元の音、生の音と無関係ではオーディオは基本的な意味を失ってしまう。
 オーディオでは、音はスピーカーから出る。電気信号によって駆動されるスピーカーの振動板が、楽器や声に代わって空気を震わせて音を出すのである。あの小さな箱のなかにミニチュアの楽器や人間が入っているわけではない。何をバカな寝言を、というなかれ。ここが肝心なのだ。すなわち、スピーカーがそういうものだから、オーディオはどんなに改良改善されても、またいかなるテクノロジーが動員されようとも、生の音そのものは出せない。あくまでも、生に近いものであって生そのものではない。そういう意味から、はじめに生を「追体験」できる音が「いい音」だといったのである。

●想像力によって体験と再生音を照らし合わせる

 しかし「追体験」はそう簡単なことではない。まず、追体験するには当然ながら、その元になる体験が必要だし、音楽にはいろいろなジャンル、楽器編成のものがあるから、体験は豊富でなければならない。しかも、その体験が後々まで心に残るようなものでなければ、追体験は叶わない。音楽体験の量と質が問われるわけだ。
 次に、オーディオで再生される音から、元の体験を呼び戻して感激を新たにするには、想像力と感性がなければならない。つまるところ、音楽をオーディオで聴くということは、意識するにしろ無意識のうちであれ、過去の体験と、いま聴いている音を想像力によって照らし合わせるという行為であり、それが一致するような音であれば、それは「いい音」だといえるのである。
 録音物の再生音は、そのように聴く者の想像力を媒介にして成立する関係にある。このことは、オーディオを語る上で大変大切だ。オーディオが単に変化する電気エネルギーを音波に変える変換装置から、音楽を聴かせてくれる道具になるのは、そこに人間の想像力という精神の働きが深く関与しているからなのである。
 そしてまた、いい録音とか、いいオーディオ機器というものは、人の想像力をかきたててくれるはずのものでもあるのだ。